前回の記事でのインタビュー、岩佐明子さん。
獣医学科を卒業されています。
大学での「論文を書くための研究や実験」については
今でも疑問に思うことがとても多いという岩佐さん。
当時、獣医学科で勉強をしながら、感覚的・倫理的におかしくなってしまっている
教授や学生がずいぶん周囲にいたのを感じていたそうです。
きれいな女性の先輩が、
「実験で切り落とした猫の腕を顕微鏡の脇にいつも吊るし、
「かわいいでしょ」なんていいながらそれが腐るまでスタンプとして使っていました。
周囲の人々もそれを見ていながら、注意する人など誰もいませんでした。」
文化祭では牛一頭バーベキュー大会というのがあったそうです。
頸動脈を切ってその場で殺し、バーベキューにして食べるという。
「牛を食べるためにはどうしたって殺さなくちゃならないのだから、
これはもうどうしようもありません。
けれど文化祭の余興として、大勢でわいわい騒いで、
お祭り気分でやっていいことでしょうか。
そこには何かが欠けているように思われます。
牛一頭を殺してバーベキューにする大会が毎年のようにその大学の文化祭で行われているのだと思うと、わたしはいまでもゾッとします。」
同じ動物でありながら、経済動物は例外などという表現が当たり前に使われる獣医学科。
「けれど牛や馬や豚だって喜怒哀楽はあるはずです。
尊い命に分け隔てはないはずです。
そうした面への配慮など全くないカリキュラムで獣医学科と言えるでしょうか。」
「私は今でも、牛の充血した眼に涙が流れていた光景を
忘れることができません。
その牛は立ったまま部分麻酔をされただけで腹部を切開されていました。
全身麻酔をしてしまうと横に倒れてしまい、それでは体験講義に差し支えるから部分麻酔なんです。
その体験とは立ったまま血が噴き出している牛の傷口に手を入れ、内臓の具合を手で触って学習するというものでした。
わたしも学生の一人としてそれをやりました。
けれどいま、わたしが覚えているのは牛の内臓をさわった感覚ではなく、
牛が涙を流して痛みに耐えていたことです。」
「(一殺千生の)スローガンも鎮魂祭もまったく気持ちの通っていない建前、
ただの儀式になっているとしかわたしには思えませんでした。
犠牲となった犬に少しでも感謝の念があるのならば、
生ゴミを焼くみたいにして死体を焼却炉に放り込むようなことは絶対にしないと思うのです。」
獣医学科での学生による、ゾッとするような動物の扱いを、目や耳にすることがあります。
岩佐さんもおっしゃってますが、誠実な人がおられるのももちろん事実だと思います。
でも、この人獣医目指しちゃダメでしょう、って人がいるのも、事実なんですよね。
そしてそれをふるいにかけたり、教育する機会がないというのは、恐ろしいことだと思います。
特に生死に関わる医学に関して、知識や技術だけでは、
誰かを幸せにすることはできないのではないでしょうか。
専門職における、血の通った誠実な使命感というのは、社会全体に影響するものでしょう。
著者自身も動物実験をしていた経験を持ち、のちに反対運動に身を投じ、
動物実験を医学的見地からも糾弾している本で、
「(動物を残酷に扱うことに関して)最初は抵抗し、そのうちに慣れ、麻痺してゆく」
ということが書かれていました。
それはきっと人間の、防御本能でもあるのだと思う。
当事者によらない監査機能と、倫理的な教育は、絶対に必要だと思います。
とにもかくにも愛護法が改正されねばね。
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