レベッカ・ブラウンの小説、好きです。
どういう話って言われたら、「え・・・わかんない」と答えざるを得ない。
うまく伝えられず、君には本当にすまないと思ってる。この通りだ。
しかしこれだけはわかってほしい。きみを愛してるのだ・・・
・・・・・・。
ハイハイ気はすんだかな?お芝居はこのくらいにして、話に戻りましょうネ。
「私たちがやったこと」は、
「安全のために、私たちはあなたの目をつぶして私の耳の中を焼くことに合意した。こうすれば私たちはいつも一緒にいるはずだ。二人ともそれぞれ、相手が持っていないもの、相手が必要としているものを持っているのであり、二人ともそれぞれ、相手に何が必要なのか、相手をどう世話したらいいかが完璧にわかっているのだ」
と、このように始まります。なにそれ残酷物語!?
いえいえ、2人が「やったこと」自体は、さして重要ではないのです。
淡々と、あくまでも淡々と乾いたまま、リズミックな文章が、つるつると紡がれます。
すこーしずつ、すこーしずつ、自分たちの思惑とはずれていく2人。
そのリズムにぴたりとはまると、なんか、涙が出るのですよねぇ。
ああ、なんて伝えたらいいんでしょう。
たとえば、昔の恋人とのことを考えてみる、2人は出会い、付き合い、別れたと。
恋人のことだけじゃなくて、今までの人間関係すべて。
でも、本当に何が起きたのか、はっきりとわかる?
本当に2人だけのことだったのか。自分と相手の心に起きてたのは、なんだったのか。
わたし、わからない。
どうして、いろんな人と出会って、それぞれの経験をどこかで血肉として、
今自分がこうしているのか。
そのわからないことが、書かれてるような気がするのです、レベッカさんの本には。
書かれてるのは自分の気がするし、自分の知ってる誰かの気がする。
そうすると、その気持ちを、リズムのいい文章でなぞるだけでいっぱいになって、
どういう話なのか、どこに着地するのかが、どうでもよくなってしまうのだった。
いつかの自分の気持ちを、もう一度なぞってる。
少し距離を持って、だからこそ客観的に。
そうするともう一度、自分と誰かの終わったはずの関係が、
勝手に新しく生まれ変わってしまうのだった。
だから、共感できない話にはまったくできず、おいおいなんだよこの話、って思うときもあります。
よき友、という話がよかった。
レベッカ・ブラウンさんは同性愛者なのだそうで、多分に私小説みたいなとこがあるのだと思う。
エイズの男友達が死を迎えるまでの話です。
これを読んで、以前、チーモに好意があるという、
宗教の教える神さまを信じる人と話してた時、
「私はセックスは神さまがくれた素晴らしいものだと思うし、
同性愛はいけないなんてこと、ないと思う」と私が言ったときの、
彼の眉間によった一瞬のしわを思い出しました。
すごくいい人だった。
でもやっぱり、付き合うことはできなかった、と思いました。
もしも彼と付き合っていたら、彼は、自分は罪を犯してる、と思いながら、もしくは感じながら、
チーモを抱いたんだろうか。
それって悲しいわ。よよよ。
彼らは、男を愛する男として、女を愛する女として生まれて、
私は男を愛する女として生まれた。
彼らも私も、自分以外のものをも愛しく思うものとして、ただここに生まれただけ。
何の罪も穢れもありません。
皆が、「お前たちは罪を犯してる」って言っても、
私たち2人は「こんな素晴らしいこと」って言いたい。
ただそれだけのことを、それだけのこととして、見たい。
世界全員の多数決じゃなくて。みんなが耳を傾ける誰かが言うからじゃなくて。
好きな人とは、好きなものが一緒じゃなくていいんだ、私。
嫌いなものが、一緒な人がいい。
そんなことを、風呂で読みながら思いましたよ。ビバノンノン。
いいハンティングの日でした。
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