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チモッキ

思ったり、感じたり、言ったりしたこと

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優しいって

「置かれた場所で咲きなさい」って本が、読まれているそうですね。
渡辺和子さんてシスターの書かれた本だそうです。
しゃきっとした感じの人ね。
チーモなんか、怒られちゃうんじゃない?みたいな。

数日前の読売夕刊にインタビューが載っていました。和ちゃんの(お友達?)。

私、すっごく腑に落ちた個所があったので、おーいみんな、シェアしようぜ。

★★★抜粋★★★

悲しみの中にある人に、周りの人がしてあげられることはありますか。

「なぐさめたくても、手の出しようのない悲しみがある。
そういう時には、一緒になって悲しんであげてください。
優しいという字は人偏に憂いと書きます。
憂いの傍らに人がたたずむ姿が、私は優しいということだと思う。
自分として、どうしたらこの方の心が休まるだろうかと考えられたらいいなと思います」

★★★抜粋以上★★★

動物関連のブログを様々なやりようで書かれる、たっくさんの方がおられます。

中には、動物虐待した人をギョエーッ!とののしる人とか、ちょっと攻撃的な人とかもいますね。

私も最初、動物のことをいろいろ知って、やっぱり怒りに飲まれましたから、
彼らの発する怒りに、初めのうち、どんなになぐさめられたか。

もちろんいまだってね、何事か聞いて、あんまり怒って悲しくて、
私もギョエーッ!とののしるときもあります。
もう、ギョエーッ!なんてもんじゃないな、ギョエッ!ギョエーーッ!!ですよ。
なんならさらに、キエー!!って言うときもあるかな。相当だよ。

でもなるべく言わない。
言ってもいいけど、言わなくてもいいってのを、頭で知ってるっていうのと、
言ったあとですごく悲しく&空しくなるから。

そんで、ギョエーッと叫ぶ彼らもまた、深く傷ついているのだと、そう思う。
「傷ついてる」ということは、免罪符にはならないし、
それは気をつけないといけませんけれども、

もしも怒れる人がいなかったらどうだったろう、と考えると、
彼らの怒りにも、私はすごく癒してもらったんですよね。
すごく、感謝はしてるんです。一緒に怒ってくれてありがとう。
怒れなければ、私は焼き焦がされそうでした。
多くの人が、そういう過程を経てるんではないかなあ、どうかなあと想像してます。

また逆に、ポジティブを心がけてる人。

チーモなんか、ちょっとじめっとしたとこあります。
チーモってきのこが大好きなんですけど、

きのこもきっとチーモが好きじゃない?
キミの湿度がいいとか、きのこ言いそうじゃない?

って程度にはじめっとしてますから、
そのポジテブな意識は、常に心掛けたいと思っています。思ってはいます。

でも、とおりすがったポジテブブログで、ある虐待の記事(これもポジティブな感じに書いてあって、そのポジティブな着眼点すごい、と思いました。あ、皮肉じゃなくてよ、ほんとに。)に「こんなのってひどい・・・」ってコメントした人にたいして、その悲しみをたしなめる感じのポジティブな内容のお返事をしてるのをずっと昔に見かけたことがあって、
あ、それってポジティブかな・・・みたいな気持ちになったこともありました。

なんか・・・え、なに、さりげなく人を批判して、自分を持ち上げる作戦?って感じですね。
違うんです。
どちらも自分にしっくりこないんです、という話のつもりなのよ。

あ、いや、(うーん、あなたがそれを言うのは、人に動物への意識の変革を促したいから?
それとも自分が怒りをぶちまけてすっきりしたいから?)と思う時もあります。
逆効果じゃないかな・・・って思う時もあります。
でも自分の気持ちをぶちまけるのも、それって、悪いことじゃないし。

最終的には、敵と憎んでるものを赦すなり愛すなり出来なければ、
敵である彼らと同じことである、という風に思ってるのですが、
それって、人類的に、とかのでっかいスタンスから見たときで、
個人的には、何でもいいと思う。

みんな、動物を思ってしてる。
みんな考えて考えて、このやり方でいいと思ってることを一生懸命するなら、たぶんそれでいいんだと思う。
怒れる人は、すごくエネルギッシュな人が多いし、
怒りをアクティブなエネルギーに転換できるのは、素晴らしいことだし。

それぞれの現段階でそれが間違ってるかどうかは、わたしにはわかりません。
ジャッジはできない。その必要もない。
でも反面教師という意義も含めて、間違ってるってこと、たぶん、ないと思う。
もちろんそれに対する好き嫌いはあるよ。

たぶん、ないと思う。と、なんだか自分の意見なのにはっきりしないのは、
人の選択をどうこう推察する時間とかあまりないから、というのもあります。
人が正しいか間違ってるかということより、
自分のこととか、どうぶつのことや好きな人たちのこととか考えるので精一杯よね。

とにかく私は全部、必要なんだと思うんです。
全部が全部、必要だし、意味があると思うんです。

「そういう中で、私はこうしたい。こうでありたい」っていう答えがあって、
(このブログで表せてるかはさておき)なぜそうしたいんだろうってのが、
いまいち自分の中で説明できなかった。
しなくてもいいんだけど、出来たらうれしいなあと思ってた。

このインタビューの言葉で腑に落ちたのね。

憂いに人が寄り添うと、優しさになる。

ああ、ほんと、それでいいんだなあと、すごく思った。
ハーン!と思った。

動物がつらい目にあった話を聞いたら、そこにいって寄り添いたい。
だれにか、なににかは、わからないけど。

動物が傷ついた話を聞いて、傷ついた人がいたら、
もしかしたらちょっとなんかしゃべって、そんでやっぱり寄り添いたい。

ネガティブをやさしく包み込んで、ポジティブをはぐくめる人になりたい。

ずっと意識してることだけど、すごく端的に言い表してて、
さすがだなあと思ったのでした。

憂いに人が寄り添って、優しいが出来る、か・・・。
ハーン・・・(沁みてる)

あとね、

あ。「やさしい」から、「し(死)」を抜くと、「やさい」になるんだー。

と、この前湯船で思ったのよ。まあ、今回の話とは、
全然関係ないんだけどね、キシシ。
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