10代のころ、彼氏にぽこぽことぶんなぐられたことがあります。
暴力はいかん。まったくいかん。
でも、いいか悪いかのカテゴライズは私たちには無意味で、
当時の私にふさわしい人だったとだけ、今は思う。
むしろ感謝してるのは、殴られると本当にこわくて痛いんだって、思わせてくれたこと。
自分をちゃんと大事にしなきゃって、身に染みて思わせてくれたこと。
でも、殴っちゃだめなのよ。DVはDVなのよ。許されないのよ。
DVを擁護してるんじゃないのよ。
次に出会う人が、私を殴るかもなんて思いもしないけど、殴ったらゆるさん。
それはもう決めてる。
やさしくしてもらうことだけが、教え諭してもらうことだけが、私の成長でなく、
自分が人を傷つけて、後悔して成長するように、
自分が傷ついたとき、それは自分を傷つけた誰かの成長に必要だったのかもしれない。
そうなると、「傷つけられた」って変な感じ。
私、人を傷つけたことはある。
でも、自分が誰かに傷つけられたことなんかあったのかしら、いままで。
ないね。自分が誤解しただけだね。
「生命は」
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻(あぶ)だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない